代表の挨拶・会長の歴史

代表の挨拶・会長の歴史

代表の挨拶・会長の歴史

  • 代表の挨拶

    当社は、私の祖父であります影山忠二(現会長)が旧榛原町(現牧之原市)にて家業でありました石屋に携わり
    お陰様で67年程が経ちます。

    私の幼き頃は正直、家業が石屋であることで「墓屋!おばけ~!」など 友達に、かわれたりもしました。
    それが嫌で家族に反発した事もありました。

    そんな私がなぜ継いだのか・・

    当初はやはり祖父から言われるままだったような気がします。
    祖父には息子がいません。私に商売を継がせたかったのでしょう。

    祖父は黙って仕事を覚えろという感じでしたが、やはり世代の違いはありますので二人の意見が
    全く正反対になることも多く、けんかもしました。

    そんな私もこの仕事に携わり、たくさんのお客様とご縁を頂き様々なお墓を建てさせて頂きました。

    もちろんお客様はそれぞれにお墓を建てる理由や想いが違います。
    ある方は「先祖代々守る者として自分の代で建て直さなきゃならねぇって思ってさ」と相談して下さったご主人。
    「亡くなったお父さんのためにお墓を建てたい」と奥様と お子さん達の想い。
    そうした貴重な経験を頂く中、『お墓は商品ではない、その家庭の礎』だと確信いたしました。

    そして自分達は、礎をお守りする墓守になりたい、売りっぱなしではなく永代まで続くそのご家族様と一緒に
    ご先祖様=お墓をお守りさせて頂くことで、ずっとお付き合いが出来る石材店でありたいと願い心がけて
    おります。

    建立してからが本当のお付き合いだと、私達は『100年のお付き合い』をモットーに少しでもお客様のお役に立てるようにと一人ひとりが仕事に責任を持っております。

    『大切に想うことができること』とは、私たちのテーマです。

    色々な出来事や立場、物事に当てはまる言葉でありますがお墓を建てる事は一代に一度あるかないかという大事なことです。その家の証ともなる礎のお手伝いが出来るこの仕事をしていて本当に良かったと、
    その想いは年々強まるばかりです。

    一期一会のご縁を頂きましたお客様をはじめ、地域の皆様、業者の方々、スタッフ等々・・
    多くの皆様に応援して頂き支えてくださっていることに感謝の気持ちを忘れず
    そしてこれからもお客様の目線からお墓づくりのお手伝いが出来ることに誇りをもって対応していくよう
    スタッフ一丸となって精進して参ります。
    どうぞよろしくお願い致します。

  • 社長の紹介

    功績・貢献の概要
    旧榛原町を始め近隣市町村の記念碑を多数建立して感謝状・表彰される。
    静岡県中部石材加工組合連絡会の設立(現静岡県中部石材加工組合)に一段と努力をして設立し10年余り理事として務める。
    静岡県中部石材加工組合、組合長として活躍した。
    静岡県石工技能士会の理事長として昭和53年より平成元年まで務める。
    静岡県石工技能士会藤枝支部(志太地域、榛原郡)の役員として一段と努力する。

    後進指導育成の概要
    石工業者の従弟を加工方法、作業を手取り教育する。
    石工技能士の受講者を募集し家庭訪問等を行い作業方法、学科を教育勤勉させる。

    技能の概要
    昭和25年 軟石材を耐火に使用し県下鰻業の餌を煮る竈を作り39年に開発特許出願番号28997号を修得専売特許も取り製作販売した。
    昭和40年 大谷石、伊豆石を使い住宅の塀の耐震石積みの開発、従来昔の積み方では地震などで倒れるので接着面に鉄筋、カスガイを入れる工法を研究し業界が現在施工している。
    墓石の土台部分に納骨口を作る方法も研究し業界の注目を浴び広く工法を施工している。
    墓石の耐震施工も研究し業界に寄与している。

    影山忠二の歴史

  • 戦 前

    影山 忠二(株式会社 牧之原石材 現会長、以下忠二)を語るには時を戦前まで巻き戻さなければならない。

    忠二は、大正13年(1924年)1月、旧榛原町細江にある影山家の次男として産声をあげた。

    榛原准教員養成所を卒業し、13歳から家業の石材店を長男(故)浩と共に手伝う。

    若年の忠二たちに与えられた仕事は石を運ぶ事からだった。現在のような運搬手段はなく、切り出された石材の集まる近くの港(旧相良町相良港)から細江まで荷車で運んだ。

    鋪装などされていないでこぼこ道を、牛に引かせた荷車を数人で押し続け、約半日かけ石材店に戻る日々の繰り返しだった。
    忠二たちが石を運び続ける一方、店内では小割材で、仕入れられた石に寸法どうり加工し始める。

    鉄製のクサビが等間隔に打ち込まれ、必要な大きさに石を裂くように割っていく。

    硬さの違う石を加工するための様々な道具は決して丈夫ではない。というより、高密度の石を削り加工するために当時最高の技術で石に挑む石工たちを横目に、それほどまでの硬さの素晴らしい石を入手していたことを表現する方が筋なのかもしれない。
    石工は毎朝五時頃から鍛冶仕事をしてその日に使う道具ひとつひとつを丁寧に手入れを繰り返す。

    まち刃先が丸くなり、役に立たなくなってしまう。

    自分の道具は自分が鍛えるため、腕の良い石工は鍛冶仕事の腕も良いといわれていました。

    汗を流し技術を磨く日々。不安定な時代に戦争が始まり、成人に満たない忠二も徴兵され、昭和18年から兵隊として中国満州に渡ることになる。

  • 戦 後

    終戦。戦争が終わったあともすぐに日本に帰ることはできなかったが、それでもなんとか上海から現在の佐世保(九州)にたどり着き、自宅へ帰ることができた時には戦争が終結してから半年もの時が過ぎていた。

    終戦の混乱期を経て、国の施策により戦没者に対する助成が始まると、戦没者の墓の建立が一気に始まった。衣食もままならない中、お墓は二の次と思われがちな時代であったが、特に榛原地域の当時の文化は戦没者やご先祖さまに対する思いは厚く、お墓の建立ラッシュとなった。

    東北産仙台石が好んで使われ、その板石は加工石工の「彫る」技術により、命が吹き込まれていく。

    丁場から切り出された石は、山石屋の手によって注文寸法を目安に粗く大体の形で仕上げ石屋の手元に運搬されてくる。

    従ってまだ不要な部分が多く

    ①鑿切り(ノミで、出来るだけ平らに仕上げる)

    ②ビシャン打ち(荒いビシャンから細かいビシャンで更に平に仕上げていく)

    ③小タタキ(両刃で美シャンの目をつぶし更に平に仕上げる)

    ④砥石をかけて磨いていく(鉄砂から金剛砂)

    ⑤文字彫り(小文字は突き鑿で仕上げる薬研彫りなど)

    仕事が作業小屋で早速始まる。

    仕上げ石屋は鍛練された特殊な道具を器用に使い分け丁寧に整形されていく。

    仕上げ石屋が使う石工用具は丁場石工が使う用具に比較して小振りな物が多く、その種類は作業工程別に多種多様である。

    豊かな経験により微調整された道具によ り一分の狂いもなく削られ彫られていく。

    山石屋の作業は”掘る”と表現されるのに対し、仕上げ石屋は”彫る”と表現し、作業内容に大きな違いがあることがわかる。

    また同じ名称、よく似た作業に使われるほぼ同形状の用具でも、彫刻に使用される用具と字彫りに使用される用具では鋼材に硬度差があり、字彫りに使用される用具のほうがより硬いのが特徴となる。巧みな技術を修得した石工の手により建立された戦没者の墓石は、石碑側面や福碑をさらに建立し、詳しく生い立ちを刻み現在に受け継がれる。このとき忠二は仕上げ石屋として戦後5年間本家に勤めた。

  • 分 家

    第一の仕事 昭和25年~

    やがて結婚し、一家の主として近くに土地を求め住居を現在の本社の場所に住居を構えた。そして同じ頃、本家での加工石工(仕上げ石屋)としての経験活かし、影山竈製作所を立ち上げる。

    ガスが普及していないこの時代に、各家庭では風呂を沸かすのも料理を作るのも竈(かまど)は不可欠だった。そこで、器用な上に研究熱心でもあった忠二は軟石で耐火性に優れている伊豆石を使うことを思いつく。

    商品化に成功した忠二はさらに研究を重ね量産できる窯業(ようぎょう)の竈を開発する。開発特許出願番号28997号を修得専売特許を取得し、製作販売した。養鰻の盛んな焼津から御前崎までの地域。

    数千とある鰻の養殖場の鰻のえさを煮る為に作った竈は大きく業界に貢献することになる。

    第二の仕事  昭和30年~

    そして、社会情勢も安定し各家庭にガスが普及し始めた頃、広大な敷地面積をもつ榛原地区では住宅の建設ラッシュが始まっていた。新興住宅地が多く立ち並び、各家が 競うように塀を建て始め忠二氏も軟石を利用した塀をつくり大谷石の塀加工職人となる。一軒で1000本の石を使った長塀なども作り上げ今でも残っている。

    第三の仕事  昭和40年~

    父である影山澤吉氏が亡くなり、兄である浩氏などに相談し墓石業界へ進出した。

    今までに出会って来た様々なお客様の墓石をはじめ、長年の実績が認められ地域や各寺院の記念碑など数多くの石工事をこなし、人静岡県技能 平成元年社団法 士会連合会優秀技能士表彰を受ける。

    忠二は今も尚、株式会社牧之原石材会長として「石」に関わり続け、”静なる匠”は、そっと石に手を置き、石の声を聴く。

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