静岡県 牧之原市「田沼意次侯」銅像5月下旬の除幕を目指す

こんにちは、牧之原石材です。突然ですが、皆さんは「田沼意次(たぬまおきつぐ)」をご存じですか?実際のところ「賄賂」や「牧之原市の偉人」というイメージを持っている方はいても、何をした人なのか知らない方も多いのではないでしょうか。そんな田沼意次侯の銅像建立を目指した事業が今、牧之原市では展開しているのです。今回は、田沼意次と銅像建立についてお伝えします。

田沼意次はどんな人

1719年 江戸に生まれ、2019年で生誕300年を迎えた田沼意次。どんなことをした人なんでしょうか。

田沼意次は、享保4年(1719年)に江戸で生まれ、幼名を龍助と言いました。
16歳で徳川家重の小姓となり、側衆に栄達して1万石を拝領し、宝暦8年(1758年)、遠州相良藩主となりました。
その後相良に築城を命ぜられ、10年後の明和5年(1768年)、大規模な相良城築城に取りかかりました。
町内は城下町らしく整備され、萩間川に橋が架けられ、東海道に通ずる田沼街道などが整備され、お城は安永9年(1780年)に完成しました。
そして、10代将軍徳川家治の側用人を経て老中に進み、いわゆる田沼時代を築きました。
意次は幕府財政の建て直しのため、貨幣の発鋳、農業一辺倒から重商政策への転換、水田の開発、エゾ地の開発など、大変な努力をしましたが、天明年間の飢饉、浅間山大爆発などの天災地変が相次ぎ、その上、政敵松平定信など保守派により、長男田沼意知が殿中で佐野政言に切り付けられ、それがもとで死去しました。
さらに、頼りにしていた将軍家治も病に倒れ、反田沼勢力の攻勢に老中の座を保つことができず、所領を没収され隠居を命ぜられました。
天明8年(1788年)7月、意次は失意のうちに70歳で死去しました。
何事も、家柄、前例、旧習などにより拘束されていた封建時代のこと、身分の低い家柄の出身であった意次は、優れた先見性、創造性と努力により老中職まで登り詰め、18世紀後半の日本の歴史に一時代を画した偉大な政治家でした。

引用:牧之原市HPより

田沼意次侯の銅像建立まで

牧之原市では「生誕300年記念事業」として様々なイベントなどが開催されています。その中でも今回ご紹介するのが、田沼意次侯生誕300年記念事業実行委員会さんが主体となって意次侯の銅像建立を目指すというものです。実は、当社「牧之原石材」も、微力ではありますが銅像完成のお手伝いとして石の台座を寄贈させていただくこととなりました。

台座

引用:中日新聞より

広報には代表の写真も掲載いただきました。

引用:広報牧之原より

銘板

銘板も完成し、台座に設置されるまで牧之原市史料館に展示されているそうです!

引用:中日新聞より

「田沼意次侯銅像募金」目標額達成

2019年8月に開始した募金活動は台座含め1100万円相当。目標の1000万円を達成したとの事。

引用:静岡新聞より

まとめ

さて、募金額も達成し、あとは完成を待つばかりです。田沼意次侯生誕300年記念事業実行委員会さんが発行している「意次通信15号」によりますと、牧之原市資料館前で2021年5月29日(土)除幕予定とのことです。完成が楽しみですね。

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