名称 林叟院
よみ りんそういん
所在地 焼津市坂本1400
宗教・宗派 曹洞宗
縁起 林叟院は、高草山南麓の清閑な谷地にあります。山号は高草山、本尊は如意輪観世音菩薩で、志太地区の曹洞宗の拠点寺院として信仰を集める名刹です。元々林叟院は、盛観文明3年(1471年)現在地の焼津市坂本ではなく、焼津市小川(こがわ)の会下之島(えげのしま)に長谷川次郎左右衛門正宣(じろうざえもんまさのぶ)を開基として建立されました。長谷川次郎左右衛門は坂本の地頭、加納義久の次男として生まれ、長谷川家の嫁婿となった人で、篤く三宝に帰依し自らを法永居士(ほうえいこじ)と号しておりました。時代は応仁の乱世にあり人々の心身は荒廃を極めていました。そこで法永居士は領地である小川の地に寺を建立し、人々の安寧を図りたいと考えました。当時この地域の名僧崇芝性岱(そうししょうたい)禅師が開いた坂部(今の静岡空港の南側)の石雲院には、三千人を超える(伝)修行僧がおりました。その中に石雲七哲といわれる七名の名僧の内の一人、備中岡山の生まれである、賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)禅師が修行に励んでいました。法永居士は石雲院の崇芝禅師に懇願し、賢仲禅師を林雙院の開山としてお迎えしたのです。開創当時、寺の名は「林雙院」と表わしました。それ以降賢仲禅師は小川の林雙院にて人々の教化に務めたのでした。今なお、林叟院は焼津市内でもたいへん歴史のある名刹として、多くの信仰を集めています。
電話番号 054-628-3487
形態 寺院墓地
施設 確認中
特徴

林叟院の鐘楼<焼津指定文化財>

入母屋造り瓦葺二重繁垂木、欄干、袴腰張。宝永3年(1706)の建立ですが、その後天災により再建されたと考えられています。はじめは茅葺きで明治中期ころには瓦葺きとなったようです。こうした形式の鐘楼は非常に珍しく、大変貴重なものです。

林叟院の宝篋印塔<焼津指定文化財>

造られた時期は明らかではありませんが、寛政3年(1791)の古絵図に記載されています。宝篋印塔は日本では鎌倉時代中期以降に造立が多くなった塔で、もとは密教系ですが、宗派を問わず建てられています。林叟院の宝篋印塔にも密教の金剛界四仏を表現した種子(梵字のこと)が刻まれています。

林叟院の経蔵<焼津指定文化財>

木造瓦葺、方形造り平屋建て。明和8年(1771)8月9日棟上、建立されました。内部中央に輪蔵があります。輪蔵は一切経などの経典を収める回転式の棚で、この輪蔵を回転させることで一切経6930巻を読んだと同じ功徳が得られるといわれています。

明応の津波と林叟院

今から500年ほど前のお話です。今は海になってしまいましたが、小川港のずっと沖に林叟院というお寺がありました。このお寺は法永長者と呼ばれた小川城主の長谷川正宣が、賢仲というえらいお坊さんを招いて建てたものです。あるとき、お寺に不思議なお坊さんが訪れ、賢仲に、「ここは危ない。お寺を移す方がよいでしょう。その場所を教えましょう。」と言って、賢仲を連れて、坂本の山のふもとまで行き、「この地こそ寺として敵地である」と告げました。賢仲が振り返るとそこにお坊さんの姿はなく、大きな石がひとつ残るだけでした。賢仲は、寺に帰るとさっそく、これを長谷川正宣に伝え、急いでお寺を移すことにして、明応6年(1497)に、今の場所に林叟院を建てました。お坊さんが立っていたという石は、今でも林叟院に登る石段の左側の大きな杉の木の根元にあり、山神石と呼ばれ、大事にされています。林叟院が今の場所に移った次の年の8月には大地震(明応地震)が起こり、津波によって、元林叟院があったあたりは海に沈んでしまいました。大正時代には、舟の上から海の中をのぞくと、林叟院の石垣や、建物の跡がよくみえたそうです。

交通 石脇上バス停 から徒歩6分
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